岐⾩県地⽅⾃治研究センター

増刊2号 【報告書】 徳山ダム移住者のその後 ー 生活再建に関する調査(1988年5月10日)

編集・執筆/地域社会研究プロジェクト ・ チーム

水崎節文(岐阜大学教授) 渡辺正(愛知大学助教授)

はじめに

第1章 徳山ダム計画の経過と諸問題

第2章 補償交渉過程

第3章 補償内容について

第4章 移転の過程

第5章 移転後の職業

第6章 移転後の生活

むすび

資料  徳山ダム移住者の生活再建に関する調査(アンケート用紙)

表紙の写真

昭和62年 3 月末に、 岐阜県から 1 つの村が姿を消した。 岐阜県の西北端に位置し、 木曽三川の最西部を流れる揖斐川の上流水源地として知られる徳山村が、 ダム建設に よる全戸立ち退き・移転という厳しい運命を背負って、 明治22年の町村制施行以来の長い村政の幕を閉じ、 隣接する藤橋村に吸収合併されたのである。 村人達は、 住み慣れた故郷、 祖先伝来の墳墓の土地を追われ、 県内各地に移住し、 不慣れな厳しい条件のなかで生活再建に取り組み始めている。 岐阜県地方自治研究センター地域社会研究プロジェクト ・ チームは、 この徳山ダム 問題については、 補償交渉開始の頃から大きな関心をもち、 現地調査や村民座談会を繰り返し実施し、 住民意識や行政の実態などの分析を行なってきた(本誌14号 「ダム 建設に揺れる徳山村」その他)。 これらの研究の過程で明らかになったことは、 高度経 済成長以来の国の開発政策は、 その時々の政党政治の論理とそれによってみずから生 み出した財政の論理によって迂余曲折の道程をたどり、 それによって地域住民が生活 の根底にかかわる諸条件を揺さぶられ、 犠牲を強いられているということであった。また、本来は地域住民の福祉と使命とする地方公共団体図結果的には国の方針の基本方針に付随し、国の側に立って住民を丸め込む役割を果たしてきたということであった。(「はじめに」より抜粋)