徳山ダム建設計画と自治研センターの活動/愛知大学教授 渡辺 正
はじめに
徳山ダム問題は、ダム本体の建設が完了しダム建設計画そのものは最終段階を迎えている。ダム建設計画が公表されてから、約50年間の長期にわたる大規模な公共事業であり、水没地域、住民だけでなく周辺地域や岐阜県はもとより、関連する隣接県、そして国の公共事業行政にも多大の影響と問題、課題を提起しマスメディアにおいてもさまざまな話題が取り上げられてきた。
岐阜県自治研究センターにとってこの徳山ダム問題は、創設以来30年、もっとも重要な研究課題のーっとして取り組んできた。また徳山ダム問題の取り組みを通して自治研究センターの活動の研究方法のあり方を具体的に形成してきたということもできる。そこで、その研究活動の経過と概要を整理し成果の特徴と今後の課題をまとめておくこととする。
1 .徳山ダム建設計画の経過と自治研センターの研究活動
徳山ダム建設計画は、当初1957年(昭32) に電源開発促進法にもとづく水力発電ダム計画として地域に公表された。その後木曽川水系の水資源開発基本計画の変更に関連して利水、治水、電源開発を目的とする多目的ダム計画として計画全体の変更が行われ、1976年(昭51) に現行の徳山ダム計画として水資源開発公団が事業を進めることになった。この徳山ダム計画は、治水、. 利水、電源開発などの多目的ダムとして、総貯水容量6 億6千万トン、水没地域8集落、水没家屋466世帯(住民約1500名)の巨大なダム建設事業であった。当初の水力発電ダム計画から完成まで約50年間の長期にわたる全国的にも最大規模の公共事業である。
徳山ダム計画は多目的ダムであるが、当初計画では下流部の名古屋市をはじめとする伊勢湾岸地域の都市部、工業地域への水資源開発のための利水が主たる目的で、あった。しかしその後、この地域における水需要の低減と長良川河口堰などのその他の水資源開発事業の進展にともなって計画目的が変質することになり、途中から揖斐川の中、下流域の洪水対策として治水目的が強調されるようになった。
したがってダム建設計画の目的、その性格も経済、社会の変化とともに変質し、本当にこの地域に必要、不可欠な事業として適切であるかどうかについて常に問題になってきた。
このダム計画の是非をめぐって中流域の大垣市の市民をはじめ広範な住民によるダム計画の反対や見直しを求める運動が展開されるようになり、差し止め裁判による係争もあり、この地域の重要な社会問題になった。ダム本体の建設は2008年に一応完成したが、依然として残された問題や新たな課題があり、徳山ダム問題はまだ決着していない。たとえば、徳山ダム計画は全国的にも例のない8 集落が全村水没することになり、大部分の村民は5 カ所の集団移転地へ移住したが、移転後20年経過した現在もなお、集団移転地の地盤沈下による再移転など生活再建、地域づくりは完結していない不安定な実態がある。またダム湖上流部周辺の残存山林問題など未解決のままであり、周辺地域の整備事業も一応の計画的な取り組みは進められているがその内容と成果はほとんど不透明である。
さらに最近、徳山ダムの貯水を長良川| 、木曽川に導水するという導水路計画が進められることになり、その目的、必要の妥当性、事業による関連地域や河川環境に及ぼす影響などについて新たな問題が表面化している。
このような内容と経過の徳山ダム建設計画について、自治研センターは、設置当初から地域問題として強い関心を持ち、多面的な研究活動と機関誌『自治研ぎふ』でその成果の公表に取り組んできた。主な成果は、二度にわたる組織的な現地調査とその成果を特集として報告したことである。第1 次現地調査は、「水没移転前の段階の現地調査」 であり、第2 次現地調査は「移転後の集団移転地で、の生活再建の実態調査」 である。
この現地調査活動のほか、徳山ダム問題に関して、自治研センター研究員、および地域の関係者による個別問題に関する報告、論考による問題提起、資料提供など継続的に取り組み、重要な役割を果たしてきた。
2. 水没移転前の現地調査、報告
第1 次の現地調査は、1980年8 月に自治研センターの研究員と岐阜大学の学生を中心に組織した調査団で現地滞在による聴き取り調査を中心に実施した。この現地調査活動はすでに板取村の調査で成果を上げており、その実績を踏まえて行ったものである。徳山村では、第1 次補償基準が提示され住民全体がこの基準を承諾するかどうかで混迷している状況であった。
徳山村で、はダム計画が公表されてから表立った反対運動はみられなかった。しかし過疎化と主産業の林業の衰退、それにダム計画という言わば「三重苦」 の状況の中で困難な選択を余儀なくされており、苦渋の判断として「建設と調査は別」 という建前を貫いてきた。つまり絶対反対という態度もとれないが、易々と計画を歓迎、あるいは受け入れると言うこともできない。調査は認めるが建設そのものに合意するものではないという態度を住民全体の共通の意思としてまとめることで妥協していた。しかし公共事業の推進手続きからすれば、実施調査を認めると言うことは計画を受け入れるも同然の判断である。住民の多くは、調査結果及びそれによる補償基準の内容次第で結論をだすとしづ判断を保留したものであった。
このようなダム計画の進捗において事業者側にとっても住民にとっても重要な局面にある状況における現地調査であり、しかも各集落をほぼ網羅する訪問聴き取り調査をおこなっており、住民の実態を観る資料を収集する調査で、あった。その成果について中間報告としての座談会記事と資料分析を基にした研究成果の特集として報告した。
・第10号:1980. 11 「座談会徳山村過疎山村調査を終えて」
・第14号:1981. 10 特集「ダム建設に揺れる徳山村、徳山村過疎山村調査報告書」
3 . 移転後の集団移転地調査、報告
1983年(昭58) 11月にダム水没の一般補償基準が妥結、承認され、これ以後住民は個別補償の合意をおこない、移転がはじまった。そして1987年(昭61) にほぼ住民全体の移転が終わり、徳山村は藤橋村に廃村分合が行われた。長い徳山村の歴史が閉じられ、住民は水資源公団が準備した5カ所の集団移転地と個人選択の移転地に移住した。自治研センターでは先例地域の事例からダム移転後の生活再建のあり方について関心を持っていたことと、移転住民の多くが集団移転地に移住することの特別の事例について追跡的に実態を明らかにすることの重要性をふまえて、1987年(昭62) 年に集団移転地の現地調査を実施した。
この現地調査は、先の徳山村現地調査の実績を継続して研究員と岐阜大学の学生による調査団を系脳載しておこなった。移転後間もない、真新しい立派な家屋と実際に聴き取りを行う内容とのギャップなどを感じながらの調査、資料収集で、あった。とくに補償金額の多くを費やしたと思われる新居、半ば自給的な生活から全くの消費生活への変化のとまどい、不慣れな賃金労働、仕事探しの不安のなかでの生活再建など、ダム移転の厳しい実態が明らかになった。その成果を中間報告と特集報告にまとめて『自治研ぎふ』で報告した。
– 第34号:1988. 01 「徳山ダム移住者の生活再建に関する調査(中間報告) 」
– 増刊2号:1988.05 増刊特集「徳山ダム移住者のその後一生活再建に関する調査報告」
4. 徳山ダム、徳山村の地域社会に関する報告、資料提供
徳山ダム問題は、その規模、期間、地域に及ぼす影響など多面的な問題、状況があり、自治研センターでは、独自の組織調査だけでなく、研究員の研究成果や地域の関係者や当事者などの寄稿による編集で『自治研ぎふ』誌上における情報の提供、問題提起などを行ってきた。それらを経年的に列挙すると次のごとくである。
1979.07 市町村探訪fダムに沈む徳山村」 編集部
1981. 04 読者の声「徳山村のおばあちゃんより」
1982.07 地域レポート「徳山ダム近況」 平方浩介
1983.08 市町村探訪f徳山村その後」編集部
1984.02 市町本探訪「分裂後の徳山村から」平対断
1982.11 緊急報告「徳山村その後」 平方浩介
1985.01 特集「新春座談会徳山村は今」
道標「徳山ダム計画と最後の抵抗者の憤」E」
地域レポート「徳山ダム建設に伴う埋蔵文化財発掘調査」 (財)岐阜県文化財センター
住民の動き「徳山ダム建設の中止を訴える」 近藤ゆり子
住民の動き「徳山を大型猛禽類(イヌワシ、クマタカ)の聖地に」
特別報告「揖斐川上流・水源山村の苦悩」渡遺正
住民の動き「徳山ダムをめぐる岐阜県の利水計画の中止」 富樫孝一
特集2 「徳山ダム問題の現状と地域整備の課題」 渡法正
5 . 徳山ダム問題の現況と研究課題
徳山ダムは本体建設が完了し、湛水試験による放水試験中であり計画の最終段階にある。しかし、ダム湖周辺の残存山林の補償問題や地域劉首計画の具体化などダム建設に直接関連する事業が重要な課題として残されたままである。また集団移転20年後の住民の生活再建や地域樹首についても高齢化や生活不安、造成地盤の欠陥工事問題に伴う補償の問題など移転住民の生活に関わる問題が引き続き発生している実態がある。
さらに、全村水没による類例のない巨大ダムによる流域の自然生態系、地域社会に及ぼす影響についてはこれから表面化してくる可能性があり、河川、森林野生態系への影響と環境問題や上・下流の不均等発展と格差による流域社会の矛盾、ダム建設による水資源開発のコスト面、必要性などの検証など、多くの問題、課題が予測される。
そしてまた、新たに進められつつある徳山ダム貯水の長良川、木曽川導水路計画の具体化が進められようとしており、これについても事業の目的、内容、効果、影響など不透明な問題が多々ある。
徳山ダム問題は本体完成で、すべてが終結するわけではなく、自治研究センターの研究活動として今後も継続して、予測される問題、未知の課題を注意深く監視し、追跡していく必要がある。
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